筋ジストロフィーのパティシエ、夫婦二人三脚での夢は続く

遺伝性疾患プラス編集部

西村泰久さん(男性/57歳/ベッカー型筋ジストロフィー患者さん)

西村泰久さん(男性/57歳/ベッカー型筋ジストロフィー患者さん)

19歳の頃、パティシエとしてのキャリアを始めた頃にベッカー型筋ジストロフィーと診断を受ける。

20年以上勤めた会社を退職後、一時、家に引きこもる生活を経験。現在は、泰久さん・加代子さんご夫妻で、千葉県松戸市にある洋菓子店『パティスリーみつ葉とはーと』を運営している。

 

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今回お話を伺ったのは、洋菓子店『パティスリーみつ葉とはーと』のパティシエで、ベッカー型筋ジストロフィーを持つ西村泰久さんです。子どもの頃からお母様のお菓子作りの手伝いをしていたこともあり、自然とパティシエを志すようになったと言う泰久さん。高校卒業後は、パティシエを目指すために老舗の結婚式場会社に就職。会社の勧めで検査を受けたことをきっかけに、確定診断を受けました。「パティシエとして、いつかは自分の店を持ちたい」という夢に向かい、歩き始めてすぐの出来事だったそうです。

自力で歩くことが困難になった42歳の頃に、会社を退職。これをきっかけに、家に閉じこもりがちな時期がありました。しかし、電動車いすの利用をきっかけに外へ出るようになり、世界が変わっていったと言います。そして、視覚障害者を支援する仕事をしていた、今の奥様・加代子さんと出会い、子ども向けのお菓子教室を開くように。加代子さんの支えもあり、泰久さんが51歳の時に『パティスリーみつ葉とはーと』をオープンさせました。

病気を理由に、一度は諦めかけた夢。泰久さんの夢は、いつしか加代子さんの夢にもなったと言います。夢を叶えて、二人三脚でお店を切り盛りする今、お二人が抱く「次なる夢」とは…?泰久さんのご経験はもちろん、そばで支える加代子さんにもお話を伺いました。

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泰久さんと加代子さん

自分の足で歩きたい。限界まで歩き続けた会社員時代

筋ジストロフィーの診断を受けるまでの経緯について、教えてください。

泰久さん: 最初に違和感を覚えたのは、小学生の頃だったと思います。小学1年生の頃から走るスピードが徐々に遅くなるなど、身体の変化を感じていました。ただ、「自分は、他の人よりも運動神経が悪いのかな」程度にしか感じていなかったので、受診はしませんでした。

その後、19歳の頃にパティシエを目指す為に老舗の結婚式場会社へ就職しました。パティシエは力仕事が多いので、仕事中に重い物を持つ機会が多かったんですね。しかしそこで、僕は重い物をうまく持つことができなかったんです。そんな僕の様子を心配してくれた会社の勧めで、検査を受けることになり、筋ジストロフィーと診断を受けました。幸いにも、もともと、あまり深く悩みすぎない性格だったこともあり、「筋ジストロフィー、初めて聞いた病気だな…」くらいにしか、当時は思わなかったと記憶しています。

また、検査を勧めてくれた会社には、その後、20年以上勤めました。会社が、僕の病気へ理解を示してくれたおかげです。例えば、僕がなるべく重いものを持たないように、パティシエの業務では仕上げの作業に多く入れるよう配慮してくれました。「パティシエの仕事を続けたい」という自分の意志を尊重してくれた会社には、本当に感謝しています。

とても理解のある会社だったんですね。会社を辞めようと思ったことは、ありましたか?

泰久さん: 入社して10年ほど経ったころに、真剣に悩んだ時期がありました。会社のおかげで、身体に負担の少ない仕事をやらせてもらっていた一方で、「パティシエとして、果たしてこのままでいいのだろうか?」と悩んでいたんです。身体への負担が少ない「仕上げ」だけが、パティシエの仕事ではないですからね。まだ20代でしたし、「パティシエなら身体に負担が大きい作業も経験しなくては」と、どこか焦っていた気持ちもあったのだと思います。一方で、その頃には症状も進行しており、筋力も衰え、重い物はうまく持てない状態でした。

悩んだ結果、会社側に、辞めることを相談しました。ですが、会社側から「仕事を続けたほうがいい。サポートするから、一緒に続けよう」と言って頂き、続けることを決意したんです。

職場では、周囲の人にも恵まれていました。「西村さんは、病気だから」と自分を甘やかすような人はおらず、適度な厳しさを持って接してくれる方々ばかりでした。ただ、常に葛藤はありましたね。どうしても、自分がサポートをしてもらう立場になることが多かったので。それでも、何とか仕事を続けることができたのは、職場の皆さんや、会社のおかげだと思っています。

そこから、42歳の頃に会社を辞められたんですね。症状の進行が理由でしたか?

泰久さん: そうですね。実は、会社を辞める前、35歳頃から「歩くことが、しんどい」と思うほど、症状が進行していました。医師からは「無理に歩くと危険な状態なので、車いすを利用しましょう」と言われていたのですが、どうしても歩くことを諦めたくなかったんです。

そのため、車いすは利用せず、千葉県の自宅から東京都内の職場まで、電車と歩きによる通勤を続けました。ただ、本当に大変でした。例えば、当時は、電車の駅にエレベーターがあることは当たり前ではなかったので、階段を使ってホームまで行かなくてはいけなかったんですね。このような状況だったので、階段を下りる際に、誤って足を踏み外して落ちてしまい、血を流して救急車で運ばれたこともありました。それでも、どうしても車いすは利用したくなかったんです。

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通勤中、階段を下りる際に誤って足を踏み外して落ちてしまったことも。(写真はイメージ)

当時は、なぜ、そこまで「車いす」ではなく「歩く」ことにこだわっていたのでしょうか?

泰久さん: 当時は、「車いすに乗ることは、恥ずかしい」と思っていたためです。「車いすに乗ったら、この世の終わりだ」とまで、自分を思いつめていました。車いすの利用が当たり前になった今、そんなことは決して思わないですが。

また、「会社を辞めたら、自分は一体どうなってしまうのだろう…」と考えては、不安に苛まれていました。当時は、歩くことをやめて、車いすに乗るようになったら仕事もできなくなると思い込んでいたんですね。僕は、何よりもパティシエの仕事が好きだったんです。だから、車いすを利用することで、仕事を奪われてしまうのではないかと、とにかく不安だったのだと思います。

だけど、徐々に、少し風が吹いているだけでも転んでしまうなど、自力で歩きづらくなっていきました。当時の職場は、駅から徒歩5分程度の場所にあったのですが、私は駅から40分くらい時間をかけて、やっと職場に到着するような状態だったんです。今思えば、とっくに限界を超えていたんですね。

そして、僕は会社を辞めました。

次第に、「いつかは自分の店を持ちたい」という夢を思い出すことも、あまりなくなっていきました。

引きこもる生活を変えた「電動車いす」

会社を辞めて、そこから、しばらく家に引きこもる生活をされていたんですよね。

泰久さん: はい。最初は、電動ではなく手動の車いすを利用していたのですが、手の力が弱くなっていたので、手でこいで車いすを動かすことが難しくなっていました。誰かに車いすを押してもらわないと、外へ出かけられない状態だったんです。そのため、自然と家にいる時間が増えました。気付けば、半年ほど家に閉じこもる生活が続いていました。

だけど、電動車いすの補装具費支給制度の申請が通ったことで、生活が一変しました。早く、電動車いすに慣れたかったこともあり、毎日、電動車いすに乗って、近所へ出かけるようになったんです。

「車いすに乗ることは、恥ずかしい」と思い込んでいた気持ちは、どのように変化していったのでしょうか?

泰久さん: ある日、近所の子どもが、車いすに乗っている自分の姿を見て「かっこいいね」と言ってくれたんです。そのことをきっかけに、「車いすは、恥ずかしくないんだ」と素直に思えました。もちろん、最初は、車いすに乗っている自分をどうしても受け入れられませんでした。だけど、その子どもの一言があったから、徐々に受け入れられるようになったのだと思います。

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子どもの言葉をきっかけに「『車いすは、恥ずかしくないんだ』と素直に思えた」と泰久さん

電動車いすに乗って出かけるようになってからは、生活が大きく変わりました。近所だけでなく、一人で電車に乗って、遠くへ出かけるようにもなったんです。出かける前に、「駅にはエレベーターがあるか?」「車いす用のトイレの場所はあるか?」といったことも自分で調べました。外へ出るようになって、それまでが嘘だったかのように毎日が楽しくなっていったんですよ。電動車いすに乗るようになってからは、周りの人からも「表情が明るくなったね」と言われることが増えていきました。

今思えば、限界まで自分の足で歩き続けたから、「歩くことは、やり切った」と自分の中で納得できたのかもしれません。

そして、外へ出るようになったことで、妻とも出会うことができたんです。

妻との出会い。そして、もう一度「夢」を追いかける決意

加代子さんとは、どのようにして知り合われたんですか?

泰久さん: 福祉センターの陶芸教室で知り合った、視覚障害をお持ちの方との出会いがきっかけでした。その方は、障害を持っていることを感じさせないほど明るい方で、僕自身、元気をもらっていたんです。その方が関わられていたボランティア活動に僕も参加するようになり、人間関係が広がりました。その方の誘いで参加した障害をお持ちの方向けイベントで、全盲の方のガイドヘルパーとして参加していたのが、妻だったんです。

加代子さんは、全盲の方のガイドヘルパーとして参加されていたんですね!

加代子さん: そうなんです。当時、私は、障害をお持ちの方や高齢者をサポートする福祉系の仕事を20年以上続けていました。私の叔母が全盲の視覚障害を持っていたこともあり、自然と、福祉系の仕事を志したんです。

また、私は子どもの頃から、「障害の有無に関わらずさまざまな方々と出会うことは大切で、そういった関わりが社会を変えていく力につながるのではないか」と、考えていました。だから、彼と出会った時に「パティシエとして、ケーキを作っていた」という話を聞いて、ピンときたんですね。すぐに、彼に「子どもに、ケーキ作りを教える教室をやろう!」と、誘いました。ケーキ作りとともに、障害や病気への理解を深めてもらえるような活動もやっていきたいと考えたのです。子育て支援を行うNPO法人の団体に企画を提案して、教室を始めました。この教室は、私たちがお店をオープンしてからは、別の方々が引き継いでくださり、今も10年以上続く活動となっています。

「自分のお店を開く」という夢に向かって再度歩み始めた理由について、教えてください。

加代子さん: 子ども向け教室を何度も開催するようになり、彼自身、次第にケーキ作りへの自信を取り戻していったことが大きかったと思います。自然と、「お店を開く」ことへ向けて、二人で歩み始めました。

泰久さん: そうですね。何よりも、妻との出会いが大きかったです。もう一度、夢に挑戦しようと思うようになりました。

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お二人の出会いが、『パティスリーみつ葉とはーと』というお店につながった。
お2人だけでお店を開くことに、不安はありましたか?

加代子さん: 不安を感じるよりも、とにかく進んできたという感じですね。彼と違って、私はお菓子やケーキ作りのこと全く知らなかったので、それも逆に良かったと思っています。

くよくよ考えるよりも、「よし、もうやるしかない!」と思って、気づいたら突き進んでいました(笑)。二人ともあまり悩まないタイプだったのが、良かったのかもしれないです。

2人で、『パティスリーみつ葉とはーと』を10年続くお店に

お店をオープンして、特に大変だったのはどんなことでしたか?

泰久さん: オープン当初、ほとんど睡眠をとらずに仕事をしていたことです。今はもうやっていませんが、当時はカフェの運営も一緒にやっていましたので、とても忙しかったです。

だけど、何よりも妻を信頼していましたので、任せられることは妻に任せて、がむしゃらに毎日仕事をすることができました。例えば、ケーキ作り作業の際に、自分が出来ないような力仕事は妻にお願いしています。「彼女なら、やってくれる」と、心から信頼していますので、安心して任せることができました。

特におすすめの商品とその理由について、教えてください。

泰久さん: みつ葉とはーとでは、「添加物を一切使わない」ところにこだわって、ケーキや焼き菓子を作っています。特におすすめは、北海道産生クリームを使い、各地の無農薬、低農薬の果物を使ったケーキです。季節の果物を使ったケーキやタルトなど、たくさんある中でも、イチゴのショートケーキがおすすめですね。

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『パティスリーみつ葉とはーと』のショートケーキ
お店をやっていて特に「うれしい」と感じるのは、どんな時ですか?

泰久さん: 一番は、添加物が体質的に苦手で、小さい頃からケーキを食べられなかったという方に「みつ葉とはーとのケーキなら、食べられる!」と喜んで頂ける時ですね。実際、わざわざ、うちのケーキを買いに、いつも遠くから足を運んでくださる方がいます。

こんな風に、体質の問題でケーキをあまり食べられなかったという方が「みつ葉とはーとのケーキなら」と、気に入ってくださり、常連になってくださることも多いです。

今後の目標について、教えてください。

泰久さん: 10年続けることを目標にお店を始め、2020年12月12日に6年目を迎えました。少しでも長く身体を動かせるように努力し、これまでに培った技術とともに、最後まで、素材にこだわった美味しいケーキを作り続けていきます。

症状の進行に伴い、私生活ではできないことが、どんどん増えています。だけど、ケーキ作りに限っては、昔よりも、よく手が動くようになり、早く作業を進められるようになっていると感じています。きっと、妻のサポートのおかげで、オープン当初よりも、スムーズに進められるようになったんでしょうね。

生きることを諦めないで。外に出て、誰かと出会おう

夢を叶えるために大切なことは、何だと思いますか?

泰久さん: 外へ出て、人に出会うことだと思います。病気や障害を抱えていると、生きていくことを諦めたくなる時もあるかもしれません。だけど、生きることを諦めないでほしいと思うのです。

例えば、僕の場合は、車いす利用者になった時に、しばらく家の中に閉じこもっていた時期がありました。だけど、ボランティア活動や趣味などを通じて、外に出て、いろいろな人と出会ったことで、自分の可能性が広がっていったと感じています。

また、僕は、症状の進行に伴い、ほとんど夢を諦めかけていた時期もありました。それが、50歳を超えて、奇跡的に夢を叶えることができたんです。それは、本当に妻のおかげですし、妻と2人だったから、夢を叶えることができたのだと思います。

そして、妻に出会うことができたのは、生きることを諦めず、自ら外の世界へ出たからです。もし、あのままずっと家の中に閉じこもっていたら、妻に出会うことも無かったでしょう。

加代子さん: 彼の夢は、いつしか私の夢にもなりました。それだけでなく、自分が誰かの役に立てるということが、いつしか私の生きがいになっていたのだと感じています。私もまた、彼に生かされていると思うのです。こんな風に思えるようになったのも、きっと、幼少の頃から全盲の叔母と関わってきた経験のおかげですね。

障害を持っていたとしても、誰かのサポートがあれば、社会の中でいきいきと生きていけると思います。私たちがそのモデルとなり、多くの方々に伝えていきたいです。私たちのことを、一人でも、多くの方々に知って頂けたら、嬉しいですね。

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泰久さんと加代子さん
最後に、遺伝性疾患患者やそのご家族へのメッセージをお願いいたします。

泰久さん: 当事者の方には、「出来ることは、時間がかかっても、なるべく自分でやってみよう」とお伝えしたいです。自分でやってみることが、結果的に自分のためになることも多くあると思います。また、支えるご家族も、場合によっては「手伝わないこと」が優しさとなることがあるのではないでしょうか。

加代子さん: そして、当事者もご家族にとっても、「しっかり休むこと」が大切だと思うんですね。互いに頑張りすぎず、リフレッシュする時間を確保することがコツなのではないかと感じています。

私たちも最近は、休みを思いっきり楽しむことを心がけています。リフレッシュすることで、また「お店を頑張ろう!」と互いに思えるからです。

泰久さん: 最後に、繰り返しになりますが、可能な限り外の世界へ出ましょう。現在、コロナ禍で、難しい場面も多くあると思いますが、もし、家に閉じこもっていた頃の自分のような方がこの記事を読んでくださっていたら、ぜひ外へ出てほしいと思います。そして、多くの方々に出会ってください。

諦めかけていた夢へ、一歩を踏み出すきっかけに出会えるかもしれません。


終始、和やかな雰囲気で取材にご協力くださった西村さんご夫妻。ゼロから『パティスリーみつ葉とはーと』を開いた時は、大変なことも多かったそうですが、今では、遠方からもケーキを買いにきてくださるお客様がいらっしゃるほど、多くの方々に愛されるお店となりました。

また、「最初は、車いすに乗る自分を受け入れられなかった」と話してくださった、泰久さん。どん底を経験し、それでも諦めずに行動し続けたことで、見事、長年の夢を叶えられました。それは、加代子さん無しでは実現できなかったと何度も話してくださった姿も、印象的でした。

10年お店を続けるという次の夢に向けて、お二人の挑戦は続きます。いつか、新型コロナウイルスの感染が落ち着き、遺伝性疾患プラス編集部も『パティスリーみつ葉とはーと』にお伺いできる日が来ることを願ってやみません。(遺伝性疾患プラス編集部)

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