今回お話を伺ったのは、網膜色素変性症と神経線維腫症I型(レックリングハウゼン病、以下、NF1)を持つ、にゃころさんです。にゃころさんには弟さんがおり、きょうだいお二人の診断がきっかけで、これらの疾患についてご家族の診断にもつながったそうです。
網膜色素変性症は、目の「網膜」に異常が見られる遺伝性疾患。暗いところでものが見えにくい(夜盲:やもう)、視野が狭い(視野狭窄)、視力低下などの症状が両目に生じます。こういった症状が、数年~数十年かけてゆるやかに進行します。現在のにゃころさんの症状は、突発的に人や車が通ったりすると見えないことがあったり、また、夜盲の症状も現れているそうです。
NF1は、皮膚にミルクコーヒー色の色素斑(カフェ・オ・レ斑)や、神経線維腫という腫瘍などの症状が現れる遺伝性疾患です。にゃころさんの場合は、全身にカフェ・オ・レ斑が生じており、右足に大きめの神経線維腫があります。右足の神経線維腫の影響で、幼少の頃から手術による治療なども経験してきました。
仕事では、児童発達支援の施設で保育士として働く夢を追いかけてきたものの、病気の進行を理由に職種の変更を検討しているというにゃころさん。プライベートではパートナーと二人の将来について話す機会も増えたと言います。今回は、にゃころさんのこれまでの経験を伺いながら、仕事やパートナーとのことについても教えて頂きました。
父から網膜色素変性症、母からNF1を。家族で正しい診断へ
網膜色素変性症は、どのようにして診断に至ったのですか?
もともと、小学生の頃から夜盲の症状は現れていました。例えば、お祭りで夜に友だちと鬼ごっこをした際、私だけうまく見えずに走れない、といったことです。他の友だちは暗くても普通に走っていたので、「どうして皆は、普通に見えて走れるんだろう?」と思っていました。
診断に至ったきっかけは、弟が網膜色素変性症の診断を受けたことです。弟の診断をきっかけに、私を含め家族で検査を受けた際に、自分も網膜色素変性症だとわかりました。家族で検査を受けてわかったのは、父から網膜色素変性症を受け継いだということです。父も症状は現れていたものの、確定診断には至っていませんでした。弟の診断をきっかけに、父も私も正しく診断を受けることができました。
続いて、NF1の診断に至った経緯を教えてください。
受診のきっかけとなったのは、私が2歳の頃に右足を引きずって歩いていたことだったと母から聞いています。当時の私は、右足と左足で長さが異なっていたそうです。そこで、大きな病院で検査を受けることになった際に、医師が、私や母にカフェ・オ・レ斑が生じていることに気付き、NF1の診断につながったと聞いています。母は、私の診断をきっかけに、自身がNF1だとわかったそうです。また、私が右足を引きずって歩いていたのは、NF1による神経線維腫が生じていたためだったとわかりました。私は、そこから右足の左右差を整えるために、手術による治療を受けました。その後、弟もNF1の診断を受けました。ちなみに、母と弟は、私のように大きな神経線維腫はなく、カフェ・オ・レ斑が生じているような状態です。
右足にある大きめの神経線維腫は、靴下や靴を履くと圧迫され、パンパンに硬くなり、痛みが生じます。そのため、靴下や靴は無理やり履いているような状態で、靴下や靴選びに苦労しています。それだけでなく、服選びにも苦労しています。もちろん、細身のズボンなどは履けないですし、ロングスカートを履いても風でめくれて見えてしまうなど、完全に神経線維腫を隠すことはできません。こんな風に、好きな服を選ぶことはできず、基本的に、ワイドなパンツを履くことしかできません。
診断を受けた時、ご家族はどのような様子でしたか?
まだ小さい頃だったので、はっきりとは覚えていません。父は、あまり深刻にとらえていなかったようです。一方で、母はとてもショックを受けていたように記憶しています。母は、「自分のせいで、子どもが病気に…」と自分を責めていました。さらに、NF1だとわかったことで、義父母(にゃころさんの祖父母)から厳しい言葉をかけられていたようで、ますます孤立していたように思います。恐らく、NF1について正しく理解される前に「遺伝する可能性がある病気」という部分だけ独り歩きしてしまったことで、「母のせいだ」という雰囲気になっていたのだと思います。
母自身も、私がNF1と診断を受けるまでは自身がNF1だと知らなかったので、一気にいろいろなことを受け止めなくてはならなかったのでしょう。後から聞いた話だと、私と一緒に死ぬことを考えた瞬間もあったほどだったそうです。それくらい、母は自分を責めていました。ただ、幸いにも、その頃にちょうど弟も生まれていたので、「2人の子どもたちのために、自分が死ぬわけにはいかない」と思い、何とか生きることができたそうです。
お母さんは、病気のことでとても苦しまれていたんですね。
そうですね。私が思春期の頃、右足の神経線維腫のことで悩んでいた時に、「本当に、ごめんね」とずっと謝っていた母の姿が忘れられません。一方で、誰よりも私のことを守ってくれたのも、また母でした。右足の神経線維腫は誰が見てもわかるような大きさなので、母はそのことで私がいじめられることを心配し、いつも守ってくれました。
例えば、幼稚園に通っていた時、母が私の右足の神経線維腫のことを先生たちに一生懸命に説明したことで、先生から子どもや保護者の方々に事情を伝えてもらうことができました。そのため、私の右足のことをばかにする子どもは一人もいなかったです。むしろ、事情を知らない転校生が私の足をばかにした時は、すぐに友だちが助けてくれたことを覚えています。これは母の働きかけがあったおかげだと思いますし、幼稚園の友だちや先生たちにもとても感謝しています。
保育士として児童発達支援に関わりたい。でも…
保育士として児童発達支援の施設で働くことを選んだのはなぜですか?
幼少の頃から、病気の子どもたちと関わることが多かったので、「自分も、この子たちの力になりたい」と、子どもながらに考えていたことが大きかったと思います。右足の手術のために初めて入院したのは、幼稚園生くらいの頃でした。入院していた病院では、同じように病気と向き合う子どもたちがいっぱいいて、中には、私よりも症状が重い子どももたくさんいました。こういった子どもたちと関わった経験が、自分の仕事観につながったと感じています。
自分の進路を考える年齢になった時、さまざまな職種を考えました。看護師、病棟保育士(医療保育士)なども考えましたが、夜間勤務のある職種だと、自分の場合は目が見えないことがハンディキャップになると感じ、諦めました。そこから、さまざまな勉強をする中で「児童発達支援の保育士として働きたい」と考えるようになったんです。障害のあるお子さんへの支援だけでなく、ご家族への支援にも関わりたいと考えたからです。私は、当事者として、大変な思いをしている母を近くでずっと見てきました。だから、仕事を通じて、同じような悩みを持つご家族に関わりたいと感じたんです。
現在のお仕事の状況について、教えてください。
児童発達支援の施設で保育士として働いていましたが、職種の変更も視野に入れて次の仕事を探しています。網膜色素変性症の症状の進行や神経線維腫のある右足への負担を考え、転職を決意しました。
保育士は、子どもの安全への配慮を求められる仕事です。自分の場合、暗い場所だと見えづらいことがあり、業務を進める中で不安になる場面がありました。また、そういった自分の様子を見た先輩から、厳しい指導を受けたこともありました。これからさらに症状が進行することで、万が一、子どもや職場の方に迷惑かけることになったら申し訳ないと感じ、保育士を辞めなくてはいけないかなと考えています。
神経線維腫のある右足は、靴下を履いたまま動き回ることで負担が大きくなります。また、医師から骨折の危険性も指摘されているので、子どもに合わせて体を張るような業務内容は、危険性が高いと感じました。
キャリアチェンジも視野にお仕事を探されているのですね。これまでの職場はどうでしたか?
保育士として、2つの児童発達支援の施設で働きました。1つ目の施設は、病気のことを隠して採用試験を受けました。病気を理由に落とされるのではないかと思い、怖くて言えなかったんです。ただ、子どもたちの送迎がある関係で、運転免許証の取得を求められたことから、「視野が狭い」程度のことはお話しました。網膜色素変性症を理由に、運転免許の取得は難しいためです。結果的に採用となり働き始めたものの、視野が狭いことで徐々に限界を感じ始めました。当時は、一度に大勢の子どもたちを見ていたので、子どもたちの動きを全て追えなかったり、お昼寝の時などに部屋が暗くなると見えづらくなったり、という状況だったんです。そこで、職場の方に病気のことをお伝えしたところ、「困ったら、何でも言ってね」と言って頂きました。ただ、実際に困ったことがあっても言いづらく、結局、無理に頑張って働いていました。暗い所ではよく見えなくて転び、足があざだらけになることもありましたが、必死に働きました。こうして頑張り続けることが次第にしんどくなり、退職することにしました。
2つ目の施設は、少人数制の児童発達支援施設でした。採用面接の段階で病気のことをお伝えして、理解頂いたうえでの採用となったんです。ただ、今度は逆に極度に心配頂くような状況になり、肩身の狭い思いをしました。上司がきめ細かに心配してくださるタイプの方で、「〇〇は大丈夫?」「〇〇はできる?」など、一つひとつ確認してもらいました。ありがたいことだと思いながらも、ちょっとした言葉に引っ掛かることがあり、徐々に精神的な負担になっていったんです。例えば、子どもたちとのお散歩との際に「全然見えない所もあるでしょ?気をつけてね。やっぱり、任せられない所は多いけど、仕方ないよね」などと声をかけられたり、「小学生とか、もう少し大きいお子さんと関わる仕事はどう?」と別の仕事を勧めて頂くこともあったりしました。次第に、「自分は、ここにいていいのだろうか…いろいろな人に心配かけてまで働く必要があるのかな?」と悩むようになっていったんです。結局、この職場も辞めることにしました。
難病の当事者が、困りごとを気軽に伝えられる環境を
次の仕事は、どういったことを重視して決めたいと考えていますか?
自分の病気をオープンにできることと、身体に負担の少ない業務に関われることです。現在は、事務職への転職を視野に入れて、パソコン業務に関わる勉強をしています。また、出来れば、間接的にでも子どもと関わるような仕事をしたいと考えています。ハローワークの担当者とも相談しながら、病気のことや自分がどんなサポートを必要としているかを伝える準備をしています。
働くうえで、難病の当事者にはどういった支援があると良いと感じますか?
難病の当事者が、自身の困りごとを気軽に伝えられる環境が整っていることでしょうか。私の場合、今の網膜色素変性症の症状である、「見えづらさ」の程度が外見からはわかりにくいと感じています。一見「健康そう」に見えるかもしれないですし、どのくらい見えづらいかを理解してもらうことは簡単ではありません。ですから、そういったことも遠慮なく伝えられるような職場だとうれしいです。
一方で、同じ難病でもNF1のように、外見だけで相手に伝わるようなものもあります。私の場合は右足に大きめの神経線維腫があるので、初めて会う方でも伝わることがほとんどです。こんな風に、難病といってもさまざまなものがあるので、その当事者がどんな支援を必要としているかを伝えられる環境が整っていくといいですよね。
パートナーとの将来、子どものことも含めて話し合う
パートナーへご自身の病気のことはお話しされていますか?
はい。付き合って7年目になる彼は、病気に対して偏見を持たず向き合ってくれる方なので、安心して病気のことを話しています。ただ、病気について深く話したり、素の自分を出せたりするようになったのは、最近のことなんです。
病気のことを彼に初めて打ち明けたのは、付き合い始めて1年ほど経った頃でした。病気のことをどう受け止められるか不安で、泣きながら伝えたことを覚えています。NF1の神経線維腫のことは、ありのままを知られるのが怖くて、暗い所で右足を触ってもらいながら確認してもらいました。その時、彼は受け入れてくれた様子で、詳しいことを質問されるということは無かったです。ただ、後から彼に聞いた話だと、私の見えない所で、こっそり病気のことを調べてくれていたそうです。網膜色素変性症やNF1がどういった病気なのか、遺伝する可能性があるのか、といったことも知ってくれたようでした。
そこから、ようやく自分の右足の神経線維腫を明るい場所で見せることができたのは5年ほど経ってからで、つい最近のことです。こうやって、怖がらずに自分を出せるようになったのは、本当に彼のおかげだと思っています。この前も、彼のおかげで久しぶりに温泉に行くことができました。というのも、私は温泉にほとんど行ったことがありません。右足の神経線維腫を他の人に見られることに抵抗があるからです。温泉へは以前から誘われていましたが、怖くて行けませんでした。ただ、「大浴場でなく、部屋で温泉に入るのはどうかな?」と彼が提案してくれて、久しぶりに温泉へ行くことができました。
網膜色素変性症の症状についても、すごく心配するというより、必要な時に「これは見える?」と確認してくれます。だから、私も「これは見えない。無理」と伝えられて、ストレスなく過ごせています。きっと、自分の場合は、相手に心配され過ぎると申し訳ない気持ちでいっぱいになると思うので、彼の接し方はとてもありがたいですね。彼と一緒にいて、私の気持ちも楽になりました。こういった積み重ねもあって、今は病気のことを含めて、ありのままの自分を出せているのだと思います。
お二人の将来のことは、お話しされますか?
彼はもともと結婚願望がない人だったんですが、最近、2人の結婚のことをよく話すようになりました。私も意外だったのですが、「結婚のことも考えたいし、子どものこともどうする?」と、彼からよく話してくれます。結婚には前向きなようですが、子どもをつくることに対しては慎重に考えている印象ですね。子どもが網膜色素変性症やNF1を持つ可能性は必ず考えなくてはいけないので、彼なりに真剣に考えてくれています。
私自身、もし子どもを迎えるとなった場合には、全力でその子を守る覚悟ができています。私が、網膜色素変性症とNF1の当事者だということはもちろん、母が私のことを守るために努力してくれた姿をずっと見てきたので。母は大変な思いをしながら、私を守ってきてくれました。そのおかげで今の私はありますし、本当に感謝しています。だから、もし自分が子どもを迎えるとなった時には、母と同じように向き合いたいです。
…これは、あくまでも私もケースなので、全ての方に同じように当てはまるわけではないと思います。今は良いご縁に恵まれて彼と一緒にいることができていますが、これまでの恋愛を振り返ると、人よりは苦労してきたのかなと感じています。
自分が本音を話せる場を持とう
最後に、遺伝性疾患プラスの読者にメッセージをお願いいたします。
きっと、当事者の方の中には、何かを我慢したり、無理に気持ちを押し殺していたりする方もいると思います。私も、同じです。だからこそ、自分が本音を話せる場を一つでも持っておくことが大切なのかなと私は思います。例えば、私の場合はTwitterの中では本音を話せますし、それを当事者の方々に共感してもらえると安心できます。また、彼と一緒にいる時は、素の自分でいられて何でも話せるので、同じく安心できる場所だと思っています。
これは本当に難しい問題だと思いますが、網膜色素変性症もNF1も、今のところ一生付き合っていく病気です。他の遺伝性疾患も、そういう病気がほとんどではないでしょうか。だから、将来に対する不安はなくならないですし、そういった不安とも一生付き合っていかないといけません。だけど、私は希望を捨てたくないですし、これからも医療が進歩していくことをあきらめずに、情報を追っていきたいと思います。
…と言いつつ、病気のことで夜に寝られなくなってしまうほど悩む時もあります。だけど、そういう時こそ、思い切って「無理なことは、無理」と声に出すことで楽になれることもあるのかなと思いますね。私の場合は、ずっと夢だった保育士の仕事と少し離れる決断をしましたが、無理をすることが減った今のほうが気持ちは楽になりました。一人ひとり幸せのかたちは違うと思いますが、自分にとっての幸せを優先して今を楽しめたらいいですよね。同じ網膜色素変性症やNF1の当事者の方だけでなく、他の遺伝性疾患、難病の方々も含めて、誰もが孤独にならずに生きやすい社会になることを願い、私も一緒に頑張りたいです。
病気の進行により夢だった仕事から少し離れる決断をした、にゃころさん。保育士に限らず、「子どもと関われる仕事をしたい」と、前向きにこれからの道を模索している姿はとても力強く感じました。保育士として児童発達支援の施設で働いていたのも、当事者としての経験やお母さんの姿を見てきたことが影響していると言います。ぜひ、これからも、にゃころさんが納得できる働き方を見つけてほしいと思いました。
また、今回はパートナーとのお話も詳しくお聞かせ頂きました。にゃころさんがおっしゃっていたように、「全ての方に同じように当てはまるわけではない」のかもしれません。だけど、もし遺伝性疾患を理由にパートナーとの関係に悩んでいる方がいらっしゃったら、一つの例として、にゃころさんのご経験を知ってもらえたらうれしいです。そして、皆さんが本音で話せる場を、ぜひ見つけてみてくださいね。(遺伝性疾患プラス編集部)